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| 三坂春編『老媼茶話』巻之五「猪鼻山天狗」より |
猪鼻山の天狗 |
| 戦国の武将 蒲生貞秀は、剃髪して知閑と名乗った。歌道にもすぐれた人で、『新菟玖波集(しんつくばしゅう)』にも入集している。 知閑はあるとき、甲州猪鼻山に陣した。そこは世に知られた魔所だった。 山の上から数多の大石が陣中に落ちてきて、大勢の笑い声が響いたりした。天狗の仕業と思われた。 知閑が言うことには、 「『山海経』に、『陰山に獣あり。その形狸のごとし。首白く好んで大蛇を食う。名づけて天狗という』とある。また『和名抄』では、『天狗(あまのくつね)』と読んで獣の部に入れている。我は英雄ゆえ、そのような獣に陣を騒がされること、断固として許しがたい。昔、この山に大頭魔王(たいずまおう)が棲んで人を食った。それを空海が岩窟に封じた魔王堂というものがある。そこへ人が行けば、必ず鬼畜のために殺され、生きて帰った者はないという。あえて山に分け入って詳しく見てこようという者は、誰かおらぬか」と。 即座に、蒲生家無双の大力である土岐大四郎元貞が進み出た。 「それがしが見届けてまいりましょう」 元貞は白綾の鉢巻をしめ、黒腹の鎧をまとい、白柄の長刀を杖に突いて、人の通わぬ山中へ分け入った。 蔦につかまり、木の根を伝い、険しく聳える岩角をよじ登って、やっと蔵王堂近くまでやって来た。 と、そこに、身のたけ二丈ばかりの大山伏が、柿色の衣を着て鉄棒を携え、道に踏ん反り返って、雷のような鼾をかいて眠っていた。 元貞は、槍の石突で山伏を突き起こした。 「ただでさえ狭く歩きにくい道を塞ぐとはけしからん。さっさと立ち去れ」 あくびをして、山伏は起き上がった。 「そういう汝は何者か。なにゆえ、わが睡眠を妨げるのか。まず名を名乗れ。聞こう」 「我こそは蒲生家代々の家の子にして、土岐大四郎元貞。日本無双の剛の者だ」 「ほう。汝、まことに剛の者なら、われと勝負せぬか」 「望むところよ」 元貞は大長刀を取り直し、山伏と打ち合い、火花を散らして切り結んだ。 どうしたことか山伏は、長刀の切っ先で真っ二つに切られて倒れたが、元貞が首を取ろうとすると、たちまち大きな鳶になって杉の梢に飛び上がり、虚空をさして飛び去った。 元貞はそのまま蔵王堂に上り、縁に腰かけて四方を見回した。 堂は、軒が崩れ落ち、壁は傾き倒れ、それを修復しようという者は誰も居ないまま荒れ果てていた。まことに天狗・魔王が棲むとみえて、多くの牛馬人畜の死骨が庭に散らばり、いまだ生々しい人の手足がここかしこに転がっていた。 蔵王堂の門前には壊れかかった仁王門があったが、その門を押し開いて、身の丈これまた二丈ばかりの仁王が、眼を剥き、力足を踏んで、元貞の前に立ちはだかった。 「どうだ客人、相撲を一番とりたい。相手になれ」 元貞は、 「望みなら受けて立とう」 と、兜の緒を強く締め、鎧を揺すって、仁王と四つに引っ組んだ。ひとしきり揉みあったが、元貞の力が勝ったか、仁王を小脇に掻い込み、強く締めて横ざまに投げ倒した。もともと長年風雨にさらされた仁王だったから、あっけなく五体が砕けて散り散りになってしまった。 「無理もない。これで懲りたろう」 元貞は息をつき、しばし休んだ。 そこへまた、奥山のほうから、凄まじい声で喚き叫んでくるものがあった。 堂の内陣に身を潜めて覗い見るに、白髪を振り乱し、眼を鏡のごとくぎらつかせ、口は耳まで裂けた、背たけ一丈あまりの老姥だった。左の肩を肌脱ぎにして、数千の毒蛇を腕に絡みつかせ、右手で毒蛇を千切っては喰い千切っては喰いしながら、仁王の骸の傍らまでやって来た。 「可哀そうに。万里鉄面鉄胴の仁王が、人を喰おうとして、かえって五体を破られるとは…」 姥が言葉を発すると、仁王の首もものを言った。 「人をあなどって、こんな目に遭ってしまった。散り散りになった五体を集めてくれよ。今一度勝負したい」 聞いて姥は走り回り、ばらばらになった仁王の手足を寄せ集めた。すべて揃うと、仁王の骸はむっくりと起き上がり、両手で首を押し据え、のしのしと元貞に迫った。 元貞はそれを見て、長刀の一振りで、仁王の首を打ち落とした。仁王の首は谷底へ転げ落ち、首なしの骸は姥と手に手を取って奥山へ逃げ入った。 しかし今度は内陣が震動して、一丈六尺の阿弥陀仏が、山河に響き渡る大声を発した。 「我は仏として世に現れてよりこの場所にあって、衆生済度に働く時を待ったが、耳に読経の声ひとつ聞かず、香華を手向ける人もなく、物寂しいばかりの明け暮れ。いつしか大頭魔王の勧めにより、人を喰うことを覚えた。姿かたちは柔和にして温厚ながら、心は鬼の肝、腹は大蛇の腹となった。今宵の食をどうしようかと思っていたら、さいわい客人が来た。天の助けというものだ。さあ、そっちへ行くぞ」 阿弥陀仏は台座を揺るがせて、元貞に躍りかかった。元貞は、 「仏は人を助けるのが道なのに、かえって人を喰おうとは何事だ」 と拳を握り、仏の胸板を突いて仰のけに突き倒した。仏は地に倒れて、ひどい悪臭を発した。 仏の横腹を足で踏み破ると、数十の骸骨が転げ出た。骸骨どもはよろよろ立ち上がり、元貞を襲ってきた。それを長刀の柄で散々に打ち砕くと、骨の破片が数百万の蝶となり、元貞の甲冑の隙間という隙間から入り込んだ。蝶が飛びついて顔面を打つこと猛吹雪のごとく、目を上げることができない。右も左も分からなくなったので、ひとまず退こうと山の下のほうへ駆けだした。 走っていく傍らの岩の上に、先ほど斬った仁王の首があった。首は元貞を見て飛びかかり、胸板に噛みついた。その首を掴んで大岩に投げつけると、小鞠のように弾み上がり、何処へともなく飛び失せた。 元貞は、猪鼻山の知閑の陣中に帰り着いた。 魔王堂での出来事を詳細に知閑に報告しているとき、例の仁王の首が光を発し、虚空を震わせて回転しながら、知閑の陣に落下した。その響きは百の落雷のようで、あたりはしばし真っ暗闇となった。 ややあって雲が晴れると輝く月が出て、あたりに仁王の首はなく、金色の光に包まれて天女が一人、鳳凰を象った玉座の傍らに坐っていた。 知閑は刀に手をかけて天女を睨みつけ、 「何者だ。正体を現せ」 と質した。天女は応えて、 「我は唐の玄宗皇帝の妃で、楊玄の娘 楊貴妃である。玄宗とは宿世の契り深く、生き変わり死に変わる世ごとに、夫婦となっている。いま玄宗はこの山の天狗となり、我もまた随い来たのだ。しかるに汝ら、卑しく穢い身で我らの山にみだりに入り込み、ほしいままに踏み荒らすとはなにごとか。ただちに立ち去れ。さもなくば一人も生きて帰さぬ。覚悟せよ」と。 知閑は怒って、抜き打ちに天女の首を斬り落とした。 天女が斬られてうつ伏しに倒れたのを、その場の兵たちがよく見ると、天女ではなくて、土岐大四郎元貞の首と胴が離れて倒れていた。 みな驚愕して言葉を失い、それを山上から数万の声がどっと笑った。さらに陣中へ、雨あられのごとく大石が投げうたれた。旋風が起こって天空は闇となり、山嵐が吹き下ろして、陣中に飾り立てた槍・長刀・旗印・馬印などを散々にした。 さしもの知閑入道も、慌てふためいて陣を払い、急ぎ本国へ逃げ帰ったのだった。 |
| あやしい古典文学 No.1955 |
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