斎藤彦麻呂『傍廂】前篇巻之三「郭公」より

ほととぎす

 大永のころ、宗祇の弟子の宗長という人の本に、ほととぎすが八月中旬まで昼夜を問わず鳴き、うるさくて食事も喉を通らないほどだったから、
  聞くたびに胸わろければほととぎす「反吐とぎす」とぞいふべかりける
と詠んだことが書かれている。
 また、山崎宗鑑は、
  かしがましこの里過ぎよほととぎす 都のうつけさぞや待つらん
と詠んだ。

 我が師 伊勢貞丈いわく、
「ほととぎすの声は、憂わしく物寂しい音だ。好んで聞くべきものではない。うぐいすの声とははなはだ異なる。
 唐詩などでは、ほととぎすの声を聞いて愁情を生じ、故郷を思い出し、哀しむ意を表現している。まことにそうあるべきであって、歌でほととぎすを待ちかね、野山に出て尋ね歩き、また初音を命にかえても聞きたいとの意を詠み、人より先に聞くことを名誉とするのは、まったく風雅などではない。俗情の人と競争して音を先に聞くだけで、愁わしくも悲しくも聞かないのは、音に感ずる心のない、ただ挑み争うばかりの騒がしい浮かれ心である。宗鑑が『都のうつけさぞや待つらん』と詠んだのは、ほととぎすの音声をよく聞き知る者の言葉といえる」と。
 そこで筆者 彦麻呂いわく、
「師匠の説は、まったくその通りです。しかし、聞く人の喜怒哀楽にしたがって、愁わしくも、ゆかしくも、おもしろくも、かなしくも聞こえるものだから、あながち愁わしいばかりとも言えないのではありませんか。暁の空のただならぬ景色の中を一声鳴いて過ぎゆくとき、あるいは夕暮れの村雨のやんだ時に聞こえてくる声など、愁わしく忌まわしいとは決めつけられません。
 いっぽう、近くの木にとまって鳴き交わすのは姦しく、腹が立つだけで、こちらも愁わしくありませんね。かつて芝の切通に住んでいたころ、たくさんのほととぎすが金地院山内の樹木にとまり、一日じゅう誰が一番よく鳴くか競うがごとく鳴き立てたのには困りました。ほんとに頭が痛かったですよ」と。
あやしい古典文学 No.1958