『梅翁随筆』巻之二「日下部の侍さそひ出さるる事」より

捨てられた男

 麹町三丁目の日下部権左衛門の家来が、七月下旬、自室で寝ていた夜中に、外から激しく戸を叩いて名を呼ばれた。
「誰だ?」
と尋ねても応えはなく、外からしきりに名を呼び立てた。
 気味が悪くて出ることができず、ものも言わずにいると、やがて音もしなくなった。そこで寝入ろうとすると、また戸を叩いた。
 いちだんと息を殺していると、今度はスッと入ってきた。見れば大男の山伏だった。近寄ってきたところを、ものも言わずに脇指で鞘ごと払うと、そのまま出ていった。
 また来るかもしれないと思うと恐ろしく、夜の明けるのを待ちかねた。明けて後、同輩たちに話したが、
「随分うなされたんだな」
と、皆は笑うばかりだった。

 その夕方、この侍は、座敷の戸を閉めに行ったまま、行方知れずになった。
 近辺を探しまわったが、見つからなかった。すぐに請け人に連絡し、何かわけがあって逐電したのかと推測してみたが、衣類など常のまま置かれてあり、なんとも不審なことだった。
 四五日過ぎて、侍の郷里から、国もとへ帰っていると知らせてきた。
 仔細を尋ねるに、侍は、主人方で座敷の戸を閉め、それから十露盤(そろばん)を置いたところまでは覚えているが、その後は分からない。相州鎌倉の在所の山中に捨てられ、さまよっているのを、土地の者が見つけて世話し、郷里へ帰したというのだった。
あやしい古典文学 No.1974