『梅翁随筆』巻之六「見付宿泥亀屋が事」より

瘤のスッポン

 東海道見付宿に、「瘤のスッポン」という名物がある。

 天明の末、見付宿に、菰を着た一人の男がやって来た。
 男は、このあたりに泥亀が多くいるのに昔から誰も食わず、毒があるなどと言って見向きもしないのを見て思い立ち、煮焼きにして、松原に持っていって立売を始めた。それが旅人の心にかなった。
 泥亀の売り上げは日々増えたけれども、もとが乞食の風来坊だから、最初は土地の人との交わりなどなかった。
 宿場の中ほどの橋の傍らに古くからの豆腐屋があったが、亭主が死んで、残された後家は地所を質入れしてやっと未納の年貢を片づけ、自らは裏屋に引きこもって、細々とした暮らしさえ立てかねていた。泥亀屋はこの後家を妻として、質入れの地所を取り戻し、家を修築して泥亀を商った。これが店売りの始まりである。
 その頃まで、周辺の人は泥亀を食うものと思っていなかったので、獲ることもなく、泥亀がはびこって稲の若芽を食って損じるなど、害も多かった。だから何処で獲っても咎める人はなく、心のままに仕入れて売ることができた。
 昔は自分で獲っていたが、今は家を持ち、多くの旅人が店に来て忙しいから、乞食どもに獲らせて買い取った。はじめは八文から十二文くらいで無類の大泥亀が手に入り、それを料理して九州・四国の藩中の旅人などに売った。それで大利を得て、たちまち金銀が多くたまった。
 寛政の半ばには、間口六七間の地所を買って家を建て、下男下女を抱えて繁盛する立場茶屋となった。それを見て、近所の者どもも追い追い泥亀の商いを始め、寛政の末には泥亀屋が五六軒もできた。近くの泥亀を獲り尽くし、乞食どもは遠方を回って獲るので、その価は最初と違って高くなった。
 かつては皆が「豆腐屋の後家が菰かぶりに騙されて女房になった」と笑いものにしたが、今は男女の使用人を召し使って崇められている。これも何かの因縁であろう。
 さて、この泥亀屋の男は、下顎から喉にかけて大きな瘤がある。背が高く中肉で、顔つき・体つきが本多弾正殿に見紛うばかりの男だ。この者の煮焼きは風味が格別だということで、人々は「瘤のスッポン」と呼んで賞味している。

 今にいたるまで、東海道で泥亀を商うのは見付宿だけだ。ほかの宿場でも、泥亀が多くいるなら、煮売りを始めれば見付と同様に成功するだろうし、きっと後々はそうなることだろう。
 しかしながら、道中の山嵐に当たっても病むような体の弱い者は、こうしたものを食うべきではない。
あやしい古典文学 No.1976