神沢杜口『翁草・異本』巻二十八「婦人死霊より

妾の死霊

 勝部正信氏が筆者に語った話を、ここに記す。

      (一)

 私(勝部正信)の母は、尼崎の本郷氏の出だ。母の祖父の三折、父の了元ともに名医として世に名高い。
 とりわけ了元は、諸方に招かれて病者を治癒せしめたこと数知れない。その高名により、尼崎城主青山侯にも召されて、市中に住みながら二十口の扶持米を給され、日々家中の諸士を往診した。

 了元は、藩の書記役の朝比奈藤兵衛と懇意であった。
 藤兵衛には愛妾があって、名を澤といった。また、朝比奈家の台所を差配して女中頭を務める乳母の老女がいた。
 老女は澤と不仲で、藤兵衛に、
「あの妾を長く寵愛なさっては、後の災いとなります。早々にどこぞへ嫁にお遣りなさい」
と勧めた。
 藤兵衛はそうしようと思ったが、澤は断固として首を縦に振らなかった。やむをえずそのままにしておくと、乳母はたびたび勧めてやまない。困って、了元に頼んで澤を預かってもらった。
 了元はしばらく預かって、いろいろ諭した。私の祖母や久しく召し使う若党の十助などもそれぞれ意見して、
「早くかたづきなさい。奥様がいらっしゃるのだから、どうしたって本妻にはなれない。顔に皺のよらぬうちに、ほかへ嫁ぐのがいちばんだよ」
と言うと、澤は、
「もし奥様がそうおっしゃったなら、すぐにもほかへ嫁に行きましょう。鳥にたとえるなら奥様は鷹で、わたしは雉。張り合う気持ちは少しもありません。しかし、奥様が思慮深くわたしを気遣ってくださるのにひきかえ、あの乳母めが色々と僻事を申すのです。乳母とわたしは朋輩ゆえ、あいつに負けて屋敷を出ることはできません。乳母めも追い出すというなら、わたしも出ましょう」
と、日ごろは柔和で善い人なのに、このときばかりは額に青筋を立てて怒るさまが恐ろしかった。
 そんな具合で埒が明かず、澤はまた朝比奈の屋敷へ帰った。その後また一度訪ねてきて、土産などくれて、近々また来ると言ったが、それっきり久しく来ることはなかった。
 やがて、誰が言うともなく、
「澤は殺された。外で灸治をして戻るところを、屋敷の家来が蔵の間で待ち伏せして、斬った」
 さらにまた、
「それゆえ、澤の亡霊が火の玉になって来るそうだ」
などと噂した。これを聞いて、了元の家では当分の間、夜は小便にも行かなかった。
 死骸は高洲に埋めたとかで、同じころ、高洲の砂を取ることを禁ずる触れがあったのも、そのせいだという話だった。
 朝比奈家では、奥方、娘御などが相次いで亡くなったという。かの乳母はどうなったのだろうか。一番に取り殺されそうなものだが、気丈者ゆえ免れたか。

      (二)

 さて、ずっと後の話になる。

 私が三十歳過ぎで、大阪平野町に住んでいたころ、近くの心斎橋に上月専庵という医師がいた。
 専庵は尼崎の生まれで、宋学と神道を修め、剣術好きでもあった。近所なので、私も時々顔を合わせた。
 専庵の老母はいたって元気な、気の置けない人だった。口先が歪んで尖り、狂言の面の「うそぶき」のようだった。
 あるとき私は尼崎の旧里に帰って、知人の當蔵龍山に会い、専庵のことを話題にした。
「専庵は拙者の同門だ。兎唇だった」
と龍山が言うので、
「いや、そうは見えないが…」
と疑うと、
「拙者と交友していたときは兎唇だったが、それでは縫ったのだろう」
と言った。
 その後、気をつけて専庵の顔を見ると、鼻の下と唇の間に筋があって、縫ったあとが分かった。

 宝暦五年の冬に私は旧里に帰住し、それからほどなく専庵は死去した。
 跡を継いだ子息の東英は、父親以上に詩文に優れ、書も巧みで画も描くなど、才能は万事にわたった。もちろん儒学・神道など、父親の修めたことは、すべて十分に身につけていた。
 しかし不幸なことに、東英は心疾を病んだ。
 それゆえいっとき妻の父のもとへ引き取られ、養生したところ、だんだんよくなった。
 そのころ関東から、三枝帯刀・小野佐太夫の両名が公用で大阪に来て、三枝は上町、小野は平野町の惣会所に逗留し、互いに行き来した。
 三枝が平野町に来た日、たまたま東英も大阪に出て、旧宅の近所なので平野町を徘徊していた。ふと見ると、惣会所の塀に槍が立てかけてある。三枝の家来が、うっかりそのままにして用事に出かけたのだった。
 なんとしたことか、東英は槍を取り、刃の鞘を外して大いに振り回した。
 町内は大騒ぎして東英を捕らえ、役所に突き出した。しかし、役人衆も与力衆も多くはこの人の弟子で、よく見知った間柄だ。ただちに養生先の義父を召し寄せ、
「病人をこのように放置しておくのは不届きである。連れ帰って、よく見守るように」
との注意だけで、きついお咎めはなかった。
 東英の心疾が広く知られるようになったのは、このときからだ。

 わが村に加嶋立詮という医師がいて、私の無二の親友である。この人も専庵と同門だ。
 立詮はこんな話をした。
「さて、不思議なことがある。ご存知のとおり上月東英ははなはだ多能だが、惜しいことにおりおり心疾を発する。近ごろ南都東大寺御門主付きの学者に任ぜられ、信頼を得て種々力添えにもあずかっていたが、この病によって辞した。実は、それについて古い因縁話があるのだ。
 東英の祖父、すなわち専庵の父親は、丹波の生まれの上月一平次という者で、尼崎藩の書記役 朝比奈氏の若党を勤めていて、妻をめとってまもなく、主命により朝比奈氏の愛妾を斬り殺した。すると、一平次の妊娠中の妻の昼寝の夢に、殺された妾が来て言った。
『おまえの夫は、何の遺恨もないわたしを闇討ちした。この怨み、必ずやおまえの子孫に報じてやる』
 妻は応えて、
『夫の考えで為したことではない。主命で殺されたのなら、仕方がないではないか。夫を恨むのは、お門違いというもの……』
『おのれ、口のへらない女だ』
 妾は妻の腹に馬乗りになり、口先を掴んで力いっぱい捻った。痛みがひどくて、妻は呻き声を上げた。
 うなされているのを見て、近くにいた人が声をかけて起こそうとしたが、しばらくは気絶したままだった。その後、ようやく全身汗まみれで目覚めた。口の痛みはしばらく続き、やがて痛みは消えたものの、口が尖ってみっともない顔になった。産まれた子の専庵が兎唇だったのも、その影響だったのかもしれない。
 専庵の妻は、子の東英がたびたび心疾を発するのを、世間でもっぱら因果応報と噂するので、近所の婦人が彼岸参りするのに同伴して天王寺へ行き、巫女に口寄せを頼んだ。
 妾の霊は巫女に託して、
『子々孫々に報いてやるのだ』
と言い放った。
『東英は祖父のしたことなど知りません。それに、夫専庵が先年、寺町に石塔を建てて弔いましたから、怨みは晴れたはずです』
と反駁すると、妾の霊は大いに怒り、
『霊を弔うというなら、尊い僧を請じて誦経をもなすべきところを、世俗の凡人の身で戒名など付けおった。いよいよ恨みがまさったぞ』
と言ったそうだ。
 これは口寄せに同席した近所の婦人が、拙者の妻に話したことだ。気の強い専庵だが、少し気味悪かったらしく、石碑を建てたらしいぞ」……
 加嶋立詮は宋学を身につけた儒者で、かりにも仏教の僧のような因果ごとを語ったりしない人なのに、こんなことを話したのだった。
あやしい古典文学 No.1982